ヘッドジャッジインタビュー: Planes Walker’s Cup 中嶋 智哉

晴れる屋

【PWC その歩みとこれから】
By Yuusuke Kanazawa



―この度はPWC400回、並びにPWCC2014開催おめでとうございます。
 
中嶋:ありがとうございます。
 
―このインタビューでは、PWC400回目、そして15周年という節目にあたってお話をお伺いします。
―まず、PWC誕生の契機と現在までの流れをお願いします。
 
中嶋:当時は秋田県在住で、MTGは高校の先輩が持っていたのがきっかけでした。
秋田にもMTGを取り扱うショップはありましたが、もっと大会に出たいという欲求から高校卒業後にPWCを地元で開催することになりました。これが1999年のことです。
 
―大学も秋田だったのですか?
 
中嶋:いえ、大学は神奈川だったので、大会を開くために夜行バスで地元に帰って開催していましたね。
 
―大会を開くために帰省していたんですか!?
 
中嶋:当時はバイタリティがありましたね(笑)
 


■秋田から神奈川へ

―当時からPWCという略称だったのですか?

中嶋:最初の頃はホームページの表記もアナウンスの際も正式名称(Planes Walker’s Cup)で呼んでいましたが、誰も正式名称で呼ばなくなったので2003年頃に略称にしました。
 
―この後、秋田での開催を重ねてから神奈川にその場を移すんですよね。
 
中嶋:そうですね。秋田で40回程開催してから神奈川に移って、そこで回数を一旦リセットしました。
最初は20人前後からのスタートで、会場は横浜の大さん橋ホールの会議室棟でした。
確か関東版第一回目の優勝者はヤソ(八十岡 翔太)でしたね。
 
そこから神奈川公会堂、西公会堂と使用会場が増えていきます。
次は川崎のエポック中原という結婚式会場。ここではPWC初となるプレリリースをやりました。
続けて川崎市文化教育会館、東京マルチメディア専門学校という流れですね。
 
この頃に開催数が100回を迎えたので過去の通算成績を集計したところ、ナベ(渡辺 雄也)が構築、リミテッド共にトップだったので彼をミスターPWCと呼ぶことにしました。これがミスターPWCの始まりです。
現在のような「PWCポイントランキングでミスターPWCを決める」形式が始まったのは第四代目のKAKAO(中村 肇)からですね。
 
ちなみにPWCは、3人チーム戦の参加人数記録と、Gamedayの参加人数記録が世界一と聞きました。
3人チーム戦は好きなので、そこはアピールしていきたいです。


 
■誰もが参加できるイベントに

―15年間に及ぶ大会開催の中で思い出深いエピソードを挙げて頂けますか。
 
中嶋:05~06年に東神奈川で開催する際、会議室を一つしか借りれないことがあって、そこの定員が72人だったんです。
その当時は大体50~60人程の参加者だったので大丈夫だと思ってたんですが、諸々の要因が重なってその日は90人以上来たんですね。
結果として、仕方なく定員漏れした参加者には帰ってもらうことになってしまいました。
そうしたら、そこから半年間ほどPWCへの参加者が減ったんですよ。

その時からですね、これからは足切りが起こらないイベントにしたいと思い、会場をできる限り広くして事前予約無しでも参加してもらえるように心掛けています。
大きな大会では会場と交渉したり、今は主催協賛店舗さんとも相談しています。




■400回の向こう側に
 
―400回という節目にあたって、また、今後についてお聞かせください。

中嶋:実際はPWC名義でないものも含めると1000回は超えているんですけど、途中から数えるのはやめましたね(笑)
現在33歳で18歳から始めて15年間なので、私自身が年を取ったと感じます。
PWCは500回まで行きたいとは思いますが、今は制度的にも激動の時期なのでどうなるか次第だと思います。
ただ、それは運営の都合なのでそれを参加者に対する言い訳にはしたくはありません。
 
―私個人としても、今後ともPWCが続くことを応援しております。本日は貴重なお話をありがとうございました。
 
中嶋:ありがとうございました。