中村 修平 10万PWP達成記念インタビュー -世界を渡り歩くプレインズウォーカー-

渡辺 和樹

By Kazuki Watanabe


 Hareruya Pros・中村 修平選手、“生涯獲得PWP100,000”を達成!




 前人未到の大記録。殿堂顕彰者であり、マジックの歴史とともに歩み、世界中のマジックを見てきた中村選手に改めて拍手を送りましょう!

 今回、その中村選手を祝福する企画が、晴れる屋でも多数企画されています。


 先立って公開された「中村修平選手が10万PWPを達成するので、どのくらいすごいのか調べてみた。」では、その100,000ポイントの凄さが、余すことなく伝えられています。

 そして今回、中村 修平選手に直接お話を伺うことができました。



 マジックとの出会い、海外への旅、マジックの面白さ、そして”あのチーム”へ参加した経緯……。

 中村選手が100,000ポイントを獲得した道のりをたっぷりと語っていただきました。では、ご覧ください!



■ 中村 修平選手にインタビュー!

――「改めまして、100,000ポイント達成、おめでとうございます!」

中村「ありがとうございます。本当に達成したんですね」

――「……想像はしていましたが、あっさりしていますね」

中村「トモハル(齋藤 友晴)に言われるまで知らなかったんですよね。『お祝いしたいからよろしく。インタビューやるよ』って連絡が来て、『なんの?』『10万おめでとう』『あ、そうなんだ』って」

――「そ、そうなんですね。気づいたら達成していた、という感じですか」

中村「あまり意識してはいなかったので、ずいぶんと溜まったな、と。グランプリには頻繁に足を運んでいるので、これぐらい入るんですよ。出場すれば400点弱は稼げますからね」

――「そうなんですか?」

中村ほぼ確実に2日目に残れますからね。トモハル(齋藤 友晴)も、同じペースで上がりつづけていると思いますよ」



■ スタート時点で、目標達成?

――「な、なるほど……あ、ちなみに50,000ポイント、多くのプレイヤーにとって目標である50レベルを達成したときのことは覚えてますか?」




中村PWPがスタートしたときから、5万を超えてました

――「ええ!? い、いきなりですか?」

中村「たしか、7万点くらいあった気がしますね。みんなで『これって何ができるの? 景品交換とか?』って話した記憶があります。そろそろポイント引き換え機能とか実装されませんか? ただ貯めるだけになってるので。世界中のグランプリに出続けていると、普通にこれくらい稼げてしまうんですよ。もちろん、世界を回っていた頃に比べればペースは落ちてますけど」

――「中村さんが”世界を回っていた時期”って、毎週グランプリに参加されていたんですよね?」

中村「そうですね。昨シーズンのトモハルみたいな状態です」


昨シーズン、グランプリマスター争いでデッドヒートを繰り広げた齋藤 友晴とBrian Braun-Duin(BBD)
※画像は【MAGIC: THE GATHERING】より引用させていただきました。


――「世界のどこかでグランプリに出て、また次のグランプリへ、と」

中村「はい。でも、そういった生活ができたのは、”公式がグランプリに出やすいように組んでくれていた時期だったから”なんですよ」

――「そんな時期があったんですか?」

中村「そうなんです。たとえばアメリカで4週間連続でグランプリがあると、”西海岸、西海岸、中央、東海岸”といったようになってたので、連戦しやすかったんです」

――「グランプリを追いかけていると、自然とアメリカ一周できていたんですね」

中村「できていましたね。あと、当時はフォーマットがバラバラだったので、それも大きかったですね。今は『今週は世界各地でスタンだけ、モダンだけ』のような形ですよね。当時は主催者が適当に選んでいたので、同じ週に開催されるグランプリでも、構築とリミテッド、好きなものを選べていたので」

――「当時の中村さんはリミテッドのグランプリを狙って参加していた感じですか?」

中村「そうですね。結果、ここまでPWPを稼いできたわけです。せっかくお祝いしていただけるということなので、これまでのことを少し詳しく話ましょうか」

――「ぜひ、お願いします!」



■ 中村 修平がプレインズウォーカーになった頃

――「中村さんがプレインズウォーカーになったきっかけ、マジックとの出会いについてお聞かせ願えますか?」

中村「マジックとの出会いは中学の頃、まだ”Windows95″が発売する前なのですが、コンピューターが欲しくてコンピューターの雑誌を読んでいました。そこにマジックの紹介記事が載ってまして、それが初めての出会いというか、認識したときですね。『第4版』が発売される前のことです」

――「まだまだ国内に出回っている情報が少なかった頃ですね」

中村「情報も実物も、ほとんどありませんでした。なので、とりあえず面白そうだからやってみようか、と思ったけど、どこにも売ってない状態でしたね。当時は大阪にいたんですけど、それからしばらく後に見かけるようになって、それから少しずつ買ってみました。でも、中学生だったからルールもよくわかってなかったです」

――「友達と遊ぶツールの一つ、という感じですか」

中村「そうですね。変化があったのは、高校受験のころです。早めに受験が終わってしまって、受験準備期間というか、授業もほとんど自習しかなくなってしまったんです。そこで、時間を潰すために学校にマジックを持っていったんですよ。僕と同じようにマジックに出会っていた友人たちもいたので、一緒にやり始めたんですよね」

――「対戦相手ができたわけですね」

中村受験生を相手にマジックをするという、なかなか鬼畜なことをしてましたね」

――「そのお友達、受験は大丈夫だったのですか?」

中村「何人か巻き込んでやってましたけど、大丈夫、だったと思います。幸いにも苦情を言われたことはないですね。まあ、いい思い出です」



《対抗呪文》でパーマネントを除去?

中村「当時はマジックに関する情報が非常に少なくて、ルールも曖昧な状態でやってた気がします。たとえば、打ち消し呪文が場に出たパーマネントも打ち消していました」


対抗呪文


――「それはわざとそういうルールになっていたんですか?」

中村「いやいや、そうじゃないですよ。というのも、当時は、ルールを覚える手段が二つしかなかったんです。一つは専門誌を読む。もう一つは、『スターター』を買って、それに入っている小冊子のようなものを読む

――「あー、昔ありましたね。ものすごく小さくて、びっしりと書いてあるルールブック」

中村「あの小冊子、わかりにくかったんですよね。その中に、正確な記載を思い出せないんですけど、『打ち消し呪文が直前の呪文以外も対象にできる』みたいな説明があったんですよ。それを読んで、『なるほどね。場に出たやつも打ち消せるのか』と」

――「インタラプト(*1)と連鎖(*2)がどうこう、なんていう時代ですか」

中村「スタックもなかったころ、マナソース(*3)を妨害できるかどうか、みたいな話をしていた頃ですね。今でも難しいと思いますけど、当時に比べれば、かなり洗練されたというかルールも分かりやすくなりました」




*1 インタラプト
インスタントより速い。インタラプトに、インスタントではスタックできなかった。→戻る


*2 連鎖
スタックのご先祖。→戻る


*3 マナソース
インタラプトよりさらに速い。→戻る



■ 中村 修平を悩ませたカードたち

――「当時に限らず、頭を悩ませた分かりにくいカードとデッキってありますか?」

中村「そうですね……カード単体で言うなら、《ネクロポーテンス》。ルールが分かりにくいのではなく、何が強いのか、よく理解できていなかったです」


ネクロポーテンス


――「たしかに、『ドローできないの!?』ってなりそうですね」

中村「使用感が非常に悪いんですよ。しかも初心者だと、黒のトリプルシンボルを用意するのが大変な上に、同時にたくさんの呪文を唱えられるような軽いデッキを組んでないので、手札に来るのが5マナ、6マナだらけ、みたいな。ディスカードで追放されてしまうから、リアニメイトもできないし、結構悩みましたね」

――「なるほど。では、悩ませたデッキは?」

中村「うーん……一つ挙げるとすれば、やっぱり『MoMa』(*4)ですかね」


トレイリアのアカデミー時のらせん天才のひらめき


――「おお……『MoMaの冬』ですね」

中村「強すぎて禁止になったあとに、《セラの聖域》を使ってMoMaを再現していた時期があったんですよ。当時は『メグリムジャー』(*5)もいて、気を抜けば1ターンキル、遅くても4ターンキル、という状態だったんですけど、この頃の『MoMa』は面倒でしたね」

――「《トレイリアのアカデミー》が禁止されて、《ドリーム・ホール》が使われ始めた頃ですか?」

中村「その後、ですね。《ドリーム・ホール》はカウンターされると弱いので、あまり使ってなかった覚えがあります」

――「ちなみに『MoMaの冬』の頃って、おいくつでした?」

中村「高校生だったと思います。地方にもマジックブームが起きた頃でした。自転車で2,30分のところになかなか大きなショップができて、そこに通っていたのですが、京都の強いプレイヤーがたまに遊びに来ていて、藤田 修さん*6)にはその頃お会いしましたよ」




*4 『MoMa』
別名トレイリアンブルー。
《魔力の櫃》を初めとしたマナアーティファクトを展開し、《トレイリアのアカデミー》からのマナ、《意外な授かり物》《時のらせん》で手札を補充、最終的には《精神力》に繋ぎライブラリーを引ききりつつ莫大なマナを生み出すコンボデッキ。
スタンダードでも1ターンキルが可能なマジック史上最悪のコンボデッキの一つ。
段階的ではあったのだが禁止カードになる期間が早く、プレミアイベントでは1998年プロツアーローマ優勝ぐらいしか結果を残せていない。→戻る


*5 『メグリムジャー』
MoMaに続く凶悪コンボデッキ。
その名の通り《記憶の壺》をマナ加速で連発し、《偏頭痛》で止めを刺す。
《修繕》と同時に登場していたのもひどすぎた。
数多のプレイヤーが「またコンボデッキか」とうんざりしたせいか、公式戦解禁後一週間で禁止になってしまった。

→戻る


*6 藤田 修さん
元祖シルバーコレクター。プロツアー、グランプリ、日本選手権、アジア太平洋選手権(APAC)、すべてで準優勝を果たしている。→戻る



■ 「最初からトーナメント志向だった」

――「当時のマジックとの付き合いは、お小遣いで買うっていうレベルですか?」

中村「そうですね。お金はそんなに使えないので、友達と練習してショップの大会に出て、商品でカードを揃えて……そういった意味では、当時も今も変わらないかもしれません

――「プロプレイヤーの先駆けみたいですね」



※画像は【MAGIC: THE GATHERING】より引用させていただきました。

中村「そんなに大したものなかったですけどね。そういう状態が1, 2年続いて、大会にも慣れてきたし、大きな公認大会に出ようと思い立って、そして参加したのが、グランプリ・京都です。日本で2回目のグランプリで、当時高校2年だったと思うんですけど、それが初めてのリミテッドだったんですよ。そして、ボコボコにされました

――「当たり前のことかもしれませんが、中村さんにも、リミテッドでボコボコにされた時期があるんですね

中村「それはもちろん(笑) 『リミテッドってなんだ?』というレベルでしたから。『世の中怖い大人ばかりだな』って思いましたよ。そして、ここからリミテッドも練習して、大きなトーナメントにも参加するようになっていきましたね」

――「いわゆる『トーナメント志向』になったわけですか」

中村「そうですね。ただ、僕の場合、最初からトーナメント志向だったと思うんですよね。とにかく、勝ちたがりだったんです。負けたら悔しいし、トーナメントは順位がしっかりと出るから、もっと上を目指そう! と思ってやっていたら、自然とトーナメントプレイヤーになっていた感じですね」



■ マジックを辞めようと思った……だけど

――「なるほど。高校2年生でグランプリに出て、そしてそこからトーナメントを勝ち続けて、トッププロの道に……」

中村「いや、高校の終わりでマジックを辞めようと思ってました

――「ええ!? せっかく公認トーナメントに参加するようになったのに!?」

中村「僕の中で一区切りつけたのが、高校の終わりの日本選手権予選です。グランプリにも出るようになり、公認大会というハードルを乗り越えてやる気になったんですけど、結局そこで負けてしまって。『大学受験もあるから、これでマジックも最後だな……』と思ってたんですが」

――「続けてますね」

中村「続けてます」

――「改めまして、100,000PWP、おめでとうございます」

中村「ありがとうございます」

――「では、そこからはひとまず受験に専念して……」

中村「いや、実は受験直前の12月に、The Finalsの予選を抜けたんですよね*7)」

――「思いっきりマジック続けてますね

中村続けてます。日本選手権の予選が終わり、そのまま続けてThe Finalsの予選を抜けて、結局受験は失敗してしまうんですよ。そして『滑り止めには行かずに、もう一年勉強しよう』と思って大阪の予備校に通い始めたんですけど、ちょうどその頃、柴田 宗男さんが大阪でお店を開いたんですよ、『Adept』っていう」

――「名前は聞いたことがあります。デッキ名にもなってますよね、『アデプトグリーン』でしたっけ」

中村「そうですね。そこに入り浸るようになって、藤田 剛史さん*7)、黒田 正城さん*8)などの強豪プレイヤーと話をするようになりました。それと同時に、マジックに情報の革命が起きた頃でもあるんですよ。マジックに関して、インターネットが大きな役割を果たすようになるんです」




*7 The Finals
The Last Sunの前身。毎年年末に行われた構築戦のお祭りイベント。年末開催ということもあり、マジック・プレイヤーの忘年会といった側面もあった。→戻る


*8 藤田 剛史さん
日本人初、プロツアートップ8、そして殿堂顕彰者。Recident Genius。インビテーショナルカードとして、《宝石の洞窟》をデザインしている。→戻る


*9 黒田 正城さん
日本人初、プロツアーチャンピオン。公式の解説でもおなじみ。→戻る



■ マジックに訪れた、情報革命

――「革命、ですか。当時はインターネット黎明期というか、情報収集のためにネットが使われ始めた時期だと思うのですが、どうやって情報収集されてましたか?」

中村「僕は、かなり早い段階でインターネットを利用してたんですよ。正確にはインターネットではないんですけどね。若い人は知らないでしょうけど、“Magic:dojo”ってやつを利用してました。古い言葉で言うと『パソコン通信』の延長みたいなものですね。パソコン通信も一般的じゃなかったと思うんですけど……インターネットとは少し違くて、大型掲示板みたいなものだけが存在している状態です」

――「コンピューターが欲しい、というところからマジックに触れた中村さんにとっては当然の流れかもしれませんが、当時使いこなしていた人は少なかったのでは?」

中村「少なかったですよ。情報格差のようなものは、やはりあったと思います。そして、『もうちょっと広いインターネットというものがあるぞ』という時代が来ます。パソコン通信の末期からインターネットが出始めた頃、僕が調べていたのはとにかくマジックに関する情報でしたね。ただ、一番最初に使ったのは、海外通販だったんです。お年玉をマジックのカードに注ぎ込みました」

――「当時から通販ってあったんですね」

中村「セキュリティなんてなかったような状態で、今考えればよく利用したなと思いますけど、自分の中ではすごく印象に残っていますね。《Tundra》を買ったこと、今でも覚えてます」


Tundra


――「ちなみに、いくらぐらいでした?」

中村「20ドルぐらいでしたね。『安い!』と思うかもしれませんが、当時の自分には高かったんですよ。まあ、今《Tundra》見ると『違うもの買っとけよ! 《Black Lotus》買っとけよ!』って思いますけどね」


Black Lotus


中村「当時はインターネット自体ほぼ使われていなくて、通販の値付けも『その町の売り上げ』とか『なんとなく強いぞ』っていう感じだったので、無茶苦茶でしたね。トレードメインでパソコンを使っていた人もいたと思いますけど、僕はトレードにまったく興味がなくて、ひたすらデッキリストを探していましたね。先ほどの”Magic:dojo”(*10)、それから”マジックのお医者さん”(*11)なんてサイトを利用してました」

――「往年のマジックファンは涙を流して喜ぶ話題ですね」

中村「『Adept』に通いだしたことで、強いプレイヤーと話して意見交換ができるようにもなったのですが、その頃には『ネットのどこを探せば強いデッキが見つかるか』という情報を見つける精度も上がってきてましたね。マジックが大きく変わった時期というか、強いデッキはネットから仕入れてくるもの、という状態になったんですよ」

――「それまではどうやって情報収集していたんですか?」

中村雑誌ですね。当時、なぜ雑誌を買っていたかというと、『デッキリストがあったから』なんです。それが2000年代に定額のインターネットが登場して、少しずつインターネットが当たり前のものになるにつれて、プロツアーの結果やデッキリストがネット上で公開されるようになったんですよね」

――「今のような状態になった、ということですか」

中村「もっと情報は少なかったと思いますけど、ネットの登場で『雑誌の情報が古い』という状態になりましたね。それまでは一番信頼性があったものが大会の3か月後に発売される雑誌だったので、とても大きな変化ですよね」

――「たしかにそうですね。そして、ネットで仕入れた情報を活かして、中村さんもトーナメントで活躍を始めるわけですね」




*10 Magic:dojo
大規模大会のデッキリストを公開し、マジック黎明期を支えた名物サイト。インターネット黎明期であったこともあり、情報格差を生み出した。→戻る


*11 マジックのお医者さん
こちらも黎明期を支えた名物サイト。チャットの盛り上がりが、とにかく有名。 →戻る



■ そして、世界へ

中村「準優勝したグランプリ・神戸が2001年なので、ちょうどその時期ですね。ただ、現在と比べてグランプリの回数も少なかったし、お金もなかったんですよね。大学生になってもマジックに時間を使いたかったので、アルバイトなどはしてなかったんです」

――「では、あまり遠征もできなかったわけですね」

中村「そうですね。でも、ここで大きな転換点が訪れまして、グランプリで勝てたことによって、The Finalsと日本選手権(*12)はレーティング(*13)で招待されることになったんですよ」

――「なるほど。過酷な予選を駆け上がる必要がなくなったんですね」

中村「これが大きかったですね。マジックを『やれるところまでやってみよう』と思うようになったきっかけです。そして、APACランドで知られているAPACにも行けるようになったんです。この大会は条件が特殊で、『レーティングでアジアの上位150位以内』だったんですよね。そして、このとき初めて『海外行こうかな』と思って、マレーシアにいってみたんです」

――「中村さんが、世界を見た瞬間ですね」

中村「そうですね。海外遠征を繰り返すようになるのは、もう少し先なんですけど……」

――「やはり、費用の問題ですか」

中村「そうですね。プロツアーも同じです。日本のグランプリでTop8に入ってプロツアーの権利を取れたとしても、当時は航空券が出なかったんです。『出場権利はあげるよ、じゃあ勝手においで』という感じで」

――「なんと……」

中村「なので、日本のグランプリでTop8に入賞して、プロツアーに行って負ける。またグランプリで出場権手に入れる、プロツアーで負ける、というループになっていましたね。当時の日本のトッププレイヤーは、全員そのループにはまっていたと思います。”プロツアーで次のプロツアーの権利を取る”というのは、相当運がないと無理という状態でした」

――「今以上に厳しい戦いだったわけですか」




中村「厳しかったですね。だからこそ、日本選手権やThe Finalsなどの国内大会が、ものすごい盛り上がり方だったんですよ。大学生活中は国内グランプリに出場し、プロツアーの権利は獲れたけど、お金がなくて諦めたこともあります。プロツアーの権利は手に入るけど、賞金が振り込まれる時期が遅くて、それを頼りにすることもできなかったり。ただ、この頃からアジアを中心に、海外グランプリに遠征することも少しずつ増えてきましたね」

――「おお。旅が増えてくるんですね」

中村「そうですね。ヨーロッパは高いから行かなかったんですけど、とにかくグランプリには参加したかったんです。当時もPTQはありましたが、僕はプロツアーを目指すならグランプリで勝つほうが楽だったんです。勝って、行くか行かないか悩んでました」

――「大学生活をしながらだと、かなり大変だったのでは?」

中村「大変でしたよ。単位が本当に危なくなって、マジックをやらないわけではなかったんですが、少しだけトーンダウンしていた時期もあります。【僕の戦績】を見ると、2004年だけまったくグランプリで入賞できてないんですよ」

――「あ、本当ですね。学業に専念していたんですか」

中村「そうですね。まあ、プロツアー・コロンバス04は権利があったので参加して、準優勝してるんですけどね

――「マジックやってますね

中村やってます。日本選手権04でもTOP4に入ってますから。この頃からプロツアーの権利を安定して獲得できるようになったので、『それならば、世界中を回ってみるか』と思い始めたんです」

――「ここから、中村さんの生活も大きく変わっていくわけですね」

中村「そうですね。就職するかどうか迷ったこともあったのですが、結果的にマジックにオールインすることを決めました。そして、僕の記憶だと、この頃から津村 健志、八十岡 翔太、齋藤 友晴、そして僕の4人で、『西遊記』のような旅が始まるんです

――「伝説の集団ですね




*12 日本選手権
日本代表を決める、年に一回の大型大会。TOP4が日本代表となった。各地方で予選が行われた時期もあり、優勝賞金と併せて大変盛り上がった。→戻る


*13 レーティング
ポイントの高さで、グランプリのBYEや、プロツアーの招待などが決まった。レーティング、という名前のとおり、負けると下がることがPWPとの大きな違い。→戻る



■ 伝説の旅




中村「旅に出たきっかけは、当時でいうプラチナレベルを手に入れて、それを維持するためにはグランプリを回ることが必須だったからです。色々なポイントを計算すると、どう考えてもグランプリを回らないと今のステータスを維持できないよね、という話になりました。『じゃあ、試しに行ってみるか』と思って始めたんですけど、最初は、モリカツ(森 勝洋)と大礒 正嗣が一緒だったと思いますね」

――「トモハルさんたちと一緒に始めたわけじゃないんですね」

中村「そうでしたね。『4人揃って出発!』というイメージを持っているかもしれませんが、4人が道中で徐々に集まったんですよ。海外のグランプリも限られていたので顔を合わせる機会も多く、自然と一緒に過ごすようになっていました」

――「その頃は、ずっと海外で生活しているような状態なのですか?」

中村「いや、グランプリごとに海外に行く、ということが多かったですね。今と比べればネット環境も弱く、スマホもありませんでしたから、単純に長期滞在するだけでも結構大変だったんです。参加するみんながバラバラのことを言って、僕の希望が通りづらかったというのもありますけどね。賞金を考慮してもほとんど赤字確定で旅行を繰り返していたので、『グランプリ終わったら延泊しよう』と考えていたのは僕だけだったような状態でした」

――「日本と海外を往復するような状態ですか」

中村「そうですね。だから余計に交通費がかかってたんですよ。冷静に考えるともったいないことをしていたな、と思います。そういった反省も踏まえて、海外に住むようになったんです」



■ 二つの大きなきっかけ

――「日本に居るのが合計2ヶ月くらい、という生活をするようになったきっかけはなんですか?」

中村「きっかけはいくつかあるんですけど、大きいものは二つですね。一つは“僕だけで旅をするようになったこと”です。僕以外に海外のグランプリを連戦しようとする人がいなくなったので、自由に航空券を手配できるようになり、『日本に帰らずに、アメリカに2か月滞在してみる』ということができるようになりました」

――「日本に帰る必要がなくなったわけですね」

中村「そうですね。この頃のグランプリは、冒頭で述べたように連戦できるような日程で組まれていたので、かなり楽でしたね。たとえば、2ヶ月間アメリカでグランプリが毎週あって、『グランプリを追いかければアメリカをぐるっと旅できるな』と思ったら、とりあえず行きと帰りの航空券だけ取る。そして、ある程度の宿を手配したり、頼み先を見つけたりして、後は現地でどうにかする、という生活をしてました」

――「まさに”旅人”ですね」

中村「そんなにかっこいいものじゃないですけどね。それまでも『グランプリのついでに、ローマで遺跡を見て回る』とか旅人っぽいことはしていたのですが、この頃から日本にもほとんど帰らず、住所不定になっていましたね。ほとんどアメリカにいました」

――「すごい生活ですね。でも、いくらグランプリで何度も行ったことがあるとは言っても、アメリカで過ごし続けるって大変だったのでは?」

中村「誰も頼れる相手がいなかったら大変だったと思いますが、その頃は『とても強力な、頼りになる存在』が、アメリカにいたんですよ」

――「『とても強力な、頼りになる存在』……ひょっとして、総帥ですか?」

中村「そうです。それが、もう一つのきっかけですね。Luis Scott-Vargasと出会い、”Channel Fireballに入ったこと”です」



■ 総帥との邂逅、そして”Channel Fireball”に



※画像は【MAGIC: THE GATHERING】より引用させていただきました。

――「チームに所属する、というのは大きな変化だと思うのですが、どのような経緯で”Channel Fireball”に参加したのですか?」

中村「僕は自分の構築に信頼をまったく置いていないので、信頼できるデッキビルダーにシェアしてほしい、という気持ちは常にありました。そして、調整チームに入れるメリットも当然わかっていたので、入れるものなら入りたいと思っていたんです」

――「中村さんから『チームに入れて欲しい』とお願いしにいったんですか?」

中村「いや、もっと軽かったですよ。日本語版のカバレージスタッフとして、ルイスコ(Luis Scott-Vargas)にインタビューをする機会がありまして、そのインタビューの最後に『Channel Fireballに入れてくれない?』って冗談で言ってみたら、意外と反応が良かったんですよね。『それじゃあ、今度プロツアー直前に合宿やるから来いよ』と言われたので、『うん、わかった。行く行く』と」

――「か……軽い

中村「そこからFacebookで連絡を取り合って、プロツアー前に混ぜてもらう、という付き合いが始まりましたね」

――「”世界最強”と呼ばれるチームに参加したわけですね」



※画像は【MAGIC: THE GATHERING】より引用させていただきました。

中村「といっても、当時は、そこまで強いという印象はなかったんですよね。Channel Fireballの黎明期というか、結成されたばかりの頃でしたから。アメリカ人の強いプレイヤーがマジックを辞めていった時期があって、強いアメリカ人がいなかった頃があるんです。たとえば、僕らがグランプリを回っていた2006年の頃、『アメリカのグランプリは、アメリカに強豪がいないから一番簡単だ』と言われていたくらいですから」

――「そんな時期があったんですね。まったく想像できないです」

中村「現在からは、たしかに考えづらいですね。それからしばらくして、『前も当たったな。なかなか強いな』というグループが出てきて、その筆頭がルイスコだったんです

――「その頃から強さが際立っていたんですか?」

中村「そうですね。それまでは、ルイスコって勝ち続けていたプレイヤーではなくて、ライターとしてのイメージの方が強かったんです。そうしたら、プロツアー・ベルリン08、翌々週のグランプリ・アトランタ08と続けて優勝。続くプロツアー・京都09で準優勝。『あれ? こいつ世界最強?』という話になったんですよ。そして、その世界最強がChannel Fireballとかいうチームを立ち上げてるらしい、と。なので、その頃は『世界最強のチーム』ではなくて、『世界最強の男がいるチーム』という印象でしたね」

――「そしてそこに参加したわけですか。それまで数名で旅を続けていたことと比べると、”チームに所属する”というのはかなり大きな変化ですね」

中村「そうですね。そして、話は戻るのですが、Channel Fireballに参加したことで、アメリカ人の知り合いが増えたんです。なので、一人でふらっとアメリカに行っても不自由しなくなり始めて、海外旅行ではなく、ほとんど”海外在住”になったんですよ。そして、今回の企画だから盛るわけじゃないんですけど、そういう生活を始めたのは、ちょうどPWPという制度が始まったころなんですよね」



■ 世界を旅するプレインズウォーカー

――「中村さんが”海外在住”を始めた時期と、PWPの開始が一緒だったとは思いませんでした」

中村「PWPに合わせたわけではないんですけどね。その頃が、よく言われる『年間60日しか日本にいない』という状態です。それが殿堂に選ばれる前後、ちょうど5年くらい前です」

――「その頃と比べると、ここ最近は日本で過ごされている時間が多いような印象を受けますね」



※画像は【MAGIC: THE GATHERING】より引用させていただきました。

中村「日本在住、に近くなっていますね。大きなきっかけは、シルバーレベルに落ちてしまったことです。シーズンの最後、2点ぐらい足りずにゴールドから落ちてしまって、『航空券は出ないし、プラチナレベルでもなくなったから、これでマジックは引退だな』と思ったんです」

――「【Hareruya Pros加入時のインタビュー】で語っていた、中村さんの”自分ルール”ですね」


中村「そうですね。でも、【グランプリ・ダラス-フォートワース2015】優勝しちゃって【プロツアー・『戦乱のゼンディカー』】の航空券が手に入ったんですよね。ヤソの殿堂表彰式には出たかったので、『最後の一回、行くか!』みたいな勢いで行きました」

――「優勝しちゃって……」



中村「プロツアーは初日落ちで『やっぱりこれで終わりだなぁ……』と思って、本当に引退するつもりだったんですよ。そうしたら、当時世界中のグランプリを回っていたMartin Juzaから連絡が来たんです。『【グランプリ・神戸2015】出たいんだ。後はよろしく』って。そうなると、宿から何から手配しないとダメなので、『そこまでやるなら、僕も出るか』と思って出たら、TOP8に残っちゃったんですよね

――「残っちゃった……」

中村「本当にそれだけなんですよ。そうしたら、プロツアーの出場権利が手に入ったので、ルイスコたちに『権利とれちゃったから、もう一回よろしく』って感じで連絡して練習してみたんですよね。そうしたら【プロツアー『ゲートウォッチの誓い』】でもTOP8に残ってしまって、計算してみると『ぎりぎりプラチナ行けるかな?』って状況になったんですよね」


※画像は【マジック:ザ・ギャザリング日本公式ウェブサイト】より引用しました。


――「残ってしまって、プラチナ行けるかな……」

中村「結局、頑張ったけどプラチナは取れなかったんですよね。それで再び『どうしようか』ってところで、トモハルから声がかかってHareruya Prosになって、気付いたら10万点の企画があって、今インタビュー受けてます」

――「あ、ありがとうございます(?)」

中村「いえいえ、こちらこそ。変な言い方ですけど、マジックを引退しようと思うと、何故かつながっていくんですよね

――「大学受験の頃、The Finalsの予選を突破したときのように?」

中村「そうですね。やめられないんですよ、色々とあって」

――「辞められないのは、マジックのゲーム性に起因している部分もありそうですね」

中村「あると思いますね。結局、完全にやめることはないと思っています。付き合い方が変わっていく感じですね。付き合い方を模索するためにマジック断ちをしてみようと思うこともあるんですけど、結局マジック断ちできなくなってますから」



■ 後輩たちへアドバイス。そして次の次元へ

――「10万点目指す! とまでは行かないかもしれませんが、世界を旅して戦ってみたいと思っている若いプレイヤーはたくさんいると思うので、ぜひ何か先輩からメッセージを……」

中村悪いことは言わない、やめた方が良いよ! ……というのは半分冗談、そして半分本気です。僕が旅をしていた頃とは、色々な状況が変わってしまったので、本当に難しくなっていると思います。先ほど”付き合い方”という言い方をしましたけど、思い返せば、僕はマジックと幸せな付き合い方ができていた、ということでもあるんでしょうね。マジックをしながら旅をする、という僕のライフスタイルを今真似するのは、正直厳しいと思います」

――「時期も含めて、中村さんだけが楽しめた”マジックとの付き合い方”だったのかもしれませんね」

中村「今思えば、とても贅沢な付き合い方をしていたな、と思います。ただ、世界でマジックの大会が開かれているのは今も変わりませんし、様々な楽しみ方があると思います。少しだけ帰国を遅くして観光したり、知り合いを誘って食事をしたり、そういったことも楽しいですよ」

――「なるほど。長期間の旅は難しくても、遠征のついでに、というところから始めることはできますよね」

中村「そうですね。おすすめは、やはりプロツアーを目指すことです。プレイヤーにとって目標である、という意味もあるのですが、グランプリは『国内だけ、ちょっと頑張ってアジアだけ』って自分なりの限定ができると思うんですけど、プロツアーは国を選べませんよね。出場権利を手に入れたら、みんな無理矢理でも予定合わせて行くでしょうから、必然的に旅になります」

――「プロツアーを目指すなら、海外グランプリへの遠征も増えるので、世界を見る機会が増えそうですね」








中村「いつもと違う場所でマジックをしよう、と思ったら、まずは自分で計画を立ててみてください。繰り返していく内に、自分なりのマジックとの付き合い方が見えてくるはずです」





 インタビューを終えた中村選手と談笑をしつつ、最後に一つだけ質問をしてみたのですが、このとき、筆者の言葉が足りずに「この後の予定は?」「次のグランプリは?」「これからの目標は?」……そのどれとも取れる曖昧な聞き方になってしまいました。

――「中村さん、次はどこに行くんですか?」



 中村さんはその言葉を聞くと、笑顔を向けながら、こう答えてくれました。

中村「そうですねぇ……世界のどこかにいると思いますよ」

 きっと次の週末も、Hareruya Prosのシャツを着たプレインズウォーカー、中村 修平さんは、世界のどこかでマジックをプレイし、新たなPWPを獲得していることでしょう。





 さて、晴れる屋では「中村 修平100,000PWP達成キャンペーン」を行っております。これまでの軌跡は、記念ページでご確認ください!

キャンペーンバナー


 また、中村選手へのお祝いメッセージを、Twitterで募集しております!

 ハッシュタグは、「 #Shuhei100000 」。前人未到の偉業を達成した中村選手に、祝福のメッセージを送りましょう!



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