どんな小説にも、終わりは必ずある。
最後の一行が書かれたページを繰り、あとがきと奥付を目にする瞬間がやってくる。
『あのクソ』は全5回だと、最初に書きはしたが。
その時点では正直、ここまでの反響が得られるとは思っていなかった。
だから名残惜しくもある。
しかし、物語は終わるからこそ美しいのだ。
それがお約束というものだ。
そういうわけで、今回で「あのクソ」は最終回となる。
そして、そのゲスト。
有終の美を飾るべきは、やはりあの男しかいない。
お約束にふさわしい人物。
デッキビルダーとは何か、クソデッキとは何かを語るにあたって、言及を避けることができないキャラクター。
歴史と伝統の男。
浅原 晃 (東京)、その人である。
第一線で斬新なデッキを作り続けてきた、至高のデッキビルダーたる彼ならば。きっと示してくれる。導いてくれる。
どうすればクソデッキを大会に持ち込まずに済むのか。その真髄を。
すなわち、浅原が何を考え、どのようにして、デッキを作り、そして選んできたのか。
その判断理由を。その意思決定をこそ、我々は何より尊ぶのだ。
だから、そう。
これは、紛れもなく。
選択と決断の物語だった。
1.濃霧/Fog
日本語ではなかった。
というか、浅原がこういう人物だということをすっかり忘れていた。
浅原 「そもそもクソデッキとは何なのか。全てがクソデッキであり、クソデッキでない。神がいるとしたら、その神が作るのが唯一のデッキであって、それ以外は全てクソデッキのはずだ。つまりクソデッキを使いたくなければ、ゼウスになるしかない」
……???
あまりにわけがわからないので、エキサイト翻訳で日→英→日してみた。
浅原 「第一に、クソデッキは何ですか。すべてはクソデッキで、クソデッキだとは限りません。神が存在すれば、それは神が作るただ一つのデッキであるに違いありません。また、それは[すべて]以外のクソデッキであるに違いありません、それ。すなわち、あなたがクソデッキを使用したくなければ、それはゼウスにならざるをえません。」
もっと意味不明になってしまった。
このままではよくわからないので、根気よくもうちょっとだけ話を聞いてみる。
浅原 「クソデッキクソデッキと言うけれども、デッキにクソも何もない。そのデッキで負けたとすれば、デッキを選んだ自分を恥じるべきであって、クソデッキというのは逃げ口上に過ぎない。やはりゼウスを目指さなければ」
言葉の端々からは浅原らしいビクトリーにこだわる哲学、メンタリティが感じ取れるが、どうしても『ゼウス』という文言が理解の妨げになってしまう。
どうやら浅原の話を理解するためには、ゼウスという概念を理解するしかないようだ。
となれば、ここはストレートに聞いてみるしかあるまい。
ゼウスとは何なのか?
浅原はゼウスになりたいのか?
浅原 「ゼウスはゼウスだよ。人はゼウスにはなれない。だけど、それを目指すことが重要なんだ」
わからない。
『ゼウスを目指す』とは、具体的には何を指しているのだろうか?
浅原 「普通のことだよ。日々色んなデッキを触って、可能性を1つ1つ確かめることだ」
それくらいのことだったら。
マジックプレイヤーなら、誰もが出来ているではないか。
ならば、誰でも既に『ゼウスを目指』している、のだろうか?
浅原 「いや、出来ていない。みんなそれが出来ていないからこそ、クソデッキなんて言葉が簡単に出てくる。可能性を試していないんだよね、要するに」
……うーむ。
そもそも何故『ゼウス』なのか?
テーロスがギリシャ神話由来であることに何か関係があるのだろうか。
浅原 「そういう要素もあるね」
あるのかよ!
一気に適当感が増してきた。
ゼウスとは何なのかとか、浅原はちゃんと考えて喋っているのかとか、そもそもこの話にまともに付き合って意味はあるのだろうかとか。
とにかく疑問は尽きない。
しかし、何はともあれ。
浅原がプレイヤーとしてもデッキビルダーとしても、超一流であることは確かなのだ。
4 《真鍮の都》 4 《ラノワールの荒原》 4 《サングラスの大草原》 4 《トロウケアの廃墟》 4 《ヘイヴンウッドの古戦場》 2 《コイロスの洞窟》 1 《ファイレクシアの塔》 1 《高級市場》 -土地(24)- 1 《魂の管理人》 4 《花の壁》 4 《洞窟のハーピー》 4 《ワタリガラスの使い魔》 4 《ワイアウッドの野人》 1 《リシャーダの巾着切り》 1 《渦巻き戦士》 3 《アカデミーの学長》 1 《まやかしの預言者》 -クリーチャー(23)- |
4 《陰謀団式療法》 4 《エラダムリーの呼び声》 4 《魔の魅惑》 1 《押収》 -呪文(13)- |
4 《催眠の悪鬼》 4 《帰化》 2 《ボトルのノーム》 1 《現実主義の修道士》 1 《ウークタビー・オランウータン》 1 《まやかしの預言者》 1 《静寂》 1 《日中の光》 -サイドボード(15)- |
「アストロ9」や、
11 《島》 4 《森》 4 《ヤヴィマヤの沿岸》 -土地(19)- 4 《敏捷なマングース》 4 《熊人間》 -クリーチャー(8)- |
4 《選択》 4 《中略》 3 《魔力の乱れ》 4 《対抗呪文》 4 《記憶の欠落》 4 《予報》 4 《排撃》 4 《嘘か真か》 2 《激動》 -呪文(33)- |
4 《反論》 4 《たい肥》 3 《クローサの獣》 3 《冬眠》 1 《枯渇》 -サイドボード(15)- |
「8Man」を例に挙げるまでもなく。
浅原は創造と想像の極致とも言うべきオリジナルデッキをいくつも作り上げては、多くのプレイヤーがマジックを始める以前より戦績を残し続けてきた、偉大なプレイヤーなのだ。
そう、浅原の理論はいつも、実際のデッキリストでこそ証明されている。ならば、具体例があれば浅原の話を理解することも楽になるのではないか。
ゼウスとはどういう意味なのか、今は具体的な話がないから、わからないだけなのかもしれない。
だが、これまでの『あのクソ』という具体的な例を出して説明してもらえば、きっと理解できる範疇の話になる。
そう思って、浅原にこれまでの『あのクソ』の話に沿って語ってもらうようお願いしてみたところ。
浅原 「確かに今までの『あのクソ』も、全部ゼウスを目指さなかったで説明がつくね。ゼウスから見ればらっしゅは蛇だったと思うし、ナベはヘラクレスだった。ヤソは……ゼウスに近いけど……多分、二周目の縛りプレイを楽しんでいるゼウスなのかもね。行弘は、まだわからないかな。ゾンビから脱したみたいだから今後に期待だね」
淡い期待は即裏切られた。まったく具体的な話にならない。
それどころかゾンビなんていう新しい概念が登場してしまい、完璧に藪蛇である。
ゾンビって何だよ。神はどこに行ったんだよ。
ここまで来るともう詰んだ気しかしないが、一応聞いてみることにする。
ゾンビって何なんです?
浅原 「ゾンビはゾンビだよ。ゼウスを目指さないなら、それはゾンビなんだ」
2.沈思黙考/Contemplation
思えば、浅原には以前からそういうところがあった。
気難しいとか口下手だとかでは決してなくて、例えにもなっていない抽象的でこちらの考えの深さを測るような、いわば禅問答のようなやりとりで、はぐらかしにかかるのだ。
そのとき用いられる言葉は大抵はその時々での浅原の中の流行りのモノだったりするわけだけれども、インタビュアーはその解釈に四苦八苦することになる。
シュークリームやシウ平。
はたまた<メムナイト>や<ラガークトカゲ>など。
浅原がマジック界に残した足跡は年を重ねるごとにカオスになっていって、浅原の真面目なマジック観というか、浅原の哲学は、それと反比例するように、あまり語られなくなったように思う。
もとよりそれも我々が、『謎』とか『不思議』といった言葉に象徴されるミステリアスなキャラクター像を、浅原に対して押しつけすぎたせいもあるのかもしれない。
しかし、<概念泥棒>を引き合いに出すまでもなく、バベルに<さまようもの>は入れるし<苦花>から<エムラクール>は出すし、浅原はそもそもそういう人間なのだ。
だから。
浅原がいつものようによくわからない話をはじめたとき、私は真剣に受け止める気持ちをなくしてしまっていた。
『ゼウス』。そして『ゾンビ』。
それもおそらくは浅原の気まぐれから生まれた他愛のない話なんだろうと、高をくくっていた。
浅原の哲学、浅原自身を支える核や芯となるような思想。
真意。あるいはこの場合、『芯意』といってもいいのかもしれない。
そういった本音は、何一つ語られないままで。
どうせ理解することはできないのだろう、と。
半ば諦めてしまっていたのだ。
だが。
散漫な気持ちで浅原に対するインタビューを終え、家に帰った後で。
ふと気になって、happymtgに眠る浅原の過去の名記事、『浅原ヴァーサスッッ!!』と、そして『マナバーン2014』に収録されている浅原記事を読み直してみたことで、そういった考えは間違いだったと改めて気づかされた。
そこには実に雄弁に、かつ真剣にマジックを語る浅原がいた。
そう、浅原はいつだって真面目にデッキを作って、真面目にインタビューに答えていたのだ。
必ずといっていいほど挟まる茶番のせいで、浅原の真摯な一面は隠れてしまいがちだけれども。
そういったノイズを取り除いてあげれば、そこには常に浅原が本当に伝えたいこと、真意があった。『芯意』があった。
となれば『ゼウス』を持ち出したのも。
突拍子もないようでいて、やはり大真面目だったのだ。
そうとわかれば、導き出される結論は1つだった。
『ゼウス』と、改めて向き合わなければならない。
そう感じた私は、浅原の思考を辿るべく、実に半年もの期間を
ある時は滝に打たれ、またある時は一日中じっと中空の一点を見つめていた。
浅原の歴史を。浅原が作った数々の名作デッキを、端から組み上げては解体したりした。
17 《森》 1 《島》 3 《ちらつき蛾の生息地》 -土地(21)- 4 《極楽鳥》 4 《桜族の長老》 4 《ヴィリジアンのシャーマン》 4 《永遠の証人》 2 《ウッド・エルフ》 1 《曇り鏡のメロク》 -クリーチャー(19)- |
4 《木霊の手の内》 4 《創造の標》 4 《すき込み》 2 《粗野な覚醒》 3 《師範の占い独楽》 3 《火と氷の剣》 -呪文(20)- |
4 《酸化》 4 《テル=ジラードの正義》 4 《忍び寄るカビ》 2 《映し身人形》 1 《北の樹の木霊》 -サイドボード(15)- |
4 《ほくちの加工場》 4 《用水路》 4 《古き泉》 4 《遺跡発掘現場》 3 《地熱の割れ目》 3 《荒らされた高地》 2 《見捨てられた前哨地》 2 《海底の瓦礫》 -土地(26)- 4 《土を食うもの》 -クリーチャー(4)- |
2 《オアリムの詠唱》 4 《燃え立つ願い》 4 《火+氷》 3 《一瞬の平和》 2 《枯渇》 3 《平等化》 2 《ワームの咆哮》 4 《彩色の宝球》 4 《テラリオン》 2 《師範の占い独楽》 -呪文(30)- |
3 《紅蓮地獄》 3 《帰化》 3 《歯と爪》 1 《メフィドロスの吸血鬼》 1 《トリスケリオン》 1 《無垢の血》 1 《壌土からの生命》 1 《枯渇》 1 《平等化》 -サイドボード(15)- |
……もちろんそんなことは微塵もしていないけれど、たまに気が向いたときには、浅原の言葉の意味を考えていた。
何度も心が折れそうになった。浅原の考えを理解しようとすること自体がおこがましいのではないか、とすら思ったこともあった。そもそも浅原が私に対して、意味のある返答をしていたという保証すらない。
……もう、ゴールしてもいいよね……?
『あのクソ』第5回、永久欠番。10年後くらいに「あのクソ、幻の第5回生原稿を発見!」とかいって未完成原稿を発表したらそれなりにウケるのではないか。
そんな泣き言が頭をよぎる。
それほどまでに、浅原の考えは私に理解できないものだったのだ。
しかし。
今にして思えばこの記事は、この『あのクソ』シリーズは、選択と決断の物語だった。
そして、すべてのクソデッキを理解するために、二度と同じ過ちを繰り返さないために、最終回として浅原に話を聞くことを選択し決断したのは、他ならぬ私自身なのだ。
ならば、自分が為した選択と決断を裏切ることはできない。それは、これまでの『あのクソ』のすべてを否定することにほかならない。
だからやはり、浅原を理解しようとすることから逃げてはいけないのだろうと思う。それをしてしまえば、この記事は「クソ記事」になってしまうからだ。あの日見たクソ記事の名前を僕達はまだ知らない。新シリーズが始まる。などと錯乱している場合ではない。
もう一度、はじめから考え直してみよう。
高橋はおろか、渡辺や八十岡ほどのプレイヤーですら、クソデッキから逃げることはできなかった。
だとしても、行弘のように、クソデッキを作る可能性を減らす努力をすることはできる。
だったら、私にだって浅原の言葉を理解する努力をして、少しでも「クソ記事」にならない努力をすること自体はできるはずだ。たとえ私の理解力に限界があるとしても。
……「クソ記事」にならない努力をすること自体は、できる?
……理解力に限界があるとしても?
そういう、ことか。
ついにたどり着いたのだ。『ゼウス』の意味に。
浅原の、『芯意』に。
3.覚醒/Awakening
つまり浅原は。
人間には限界がある、ということを言いたいのではないだろうか。
冒頭において浅原は、『神がいるとしたら、その神が作るのが唯一のデッキであって、それ以外は全てクソデッキのはず』と述べていた。
ここでいう『神』≒『ゼウス』とは明らかに、絶対性・完全性の象徴と考えられる。とするとゼウスは、過去起こったことから未来起こりうることまで、《全知》たる存在である。
したがって、ゼウスはクソデッキを作らない。否、作るはずがないのだ。そのデッキが失敗であるかどうか、ゼウスは既に知っているのだから。
しかし、人間はそうではない。人間は《全知》ではない。だから失敗もする。
ここで大事なのは、我々がゼウスではなく人間である、という点だ。
人間である以上、クソデッキを作ってしまう。そこからは逃れられない。『人はゼウスにはなれない』……人間が絶対の神になることはできないのだ。
では、クソデッキを作らないためにはどうすればいいのか?
『人はゼウスにはなれない。だけど、それを目指すことが重要なんだ』
ゼウスを目指すこと。
それはすなわち、『日々色んなデッキを触って、可能性を1つ1つ確かめること』だという。
そう、人は必ず失敗をする。
だからこそ、環境に存在するカードは1つ1つ、自らの手で可能性を確かめなければならない。
浅原にとって、試す前から『弱い』とか『クソ』とか決めつけるのは言語道断なのだ。
凡人が無駄と切り捨てるようなコンボにこそ、浅原は可能性を見出す。
9 《山》 1 《森》 4 《樹木茂る山麓》 4 《カープルーザンの森》 2 《モスファイアの谷》 -土地(20)- 4 《モグの狂信者》 4 《スカークの探鉱者》 4 《ゴブリンの群衆追い》 4 《火花鍛冶》 4 《ゴブリンの女看守》 4 《ゴブリンの戦長》 3 《宝石の手の焼却者》 1 《ゴブリンの首謀者》 1 《包囲攻撃の司令官》 1 《弧炎撒き》 1 《白金の天使》 1 《怒りの天使アクローマ》 -クリーチャー(32)- |
4 《再誕のパターン》 4 《金属モックス》 -呪文(8)- |
4 《火炎舌のカヴー》 4 《帰化》 2 《ゴブリンのうすのろ》 1 《ゴブリンの首謀者》 1 《鏡割りのキキジキ》 1 《映し身人形》 1 《隔離するタイタン》 1 《山》 -サイドボード(15)- |
7 《島》 3 《平地》 4 《聖なる鋳造所》 4 《アダーカー荒原》 4 《氷の橋、天戸》 1 《すべてを護るもの、母聖樹》 -土地(23)- -クリーチャー(0)- |
4 《手練》 4 《時間の把握》 1 《強迫的な研究》 4 《神の怒り》 4 《不朽の理想》 4 《信仰の足枷》 1 《象牙の仮面》 1 《ズアーの運命支配》 3 《押収》 3 《ドラゴン変化》 4 《ボロスの印鑑》 4 《友なる石》 -呪文(37)- |
4 《マナ漏出》 4 《紅蓮地獄》 4 《防御の光網》 1 《象牙の仮面》 1 《特権階級》 1 《世界の源獣》 -サイドボード(15)- |
あらゆる時間を惜しまず。あらゆる努力を惜しまず。
妥協することなく。
それが『ゼウスを目指す』ということの意味だ。
クソデッキを作りたくなければ、どこまでも追究するべきなのだ。新たな可能性を。
それなのに我々は、試す前からカードやコンボの強さを決めつけたり、回す前からデッキを諦めたりしてしまう。
自身の想像力を、過信するあまりに。
それをこそ、浅原は咎めているのだ。『人間には限界がある』と。
人は完全ではない。だというのに。
どうして簡単に、『自分の認識不足かもしれない』という可能性を棚にあげて、安易に『クソデッキ』という言葉を使いたがるのだろうか?
それが浅原の『芯意』だ。
そう。
実は浅原は、所詮は人間に過ぎない我々の驕りを、その傲慢を、戒めてくれていたのだ。
そのように解釈すると、ゾンビの意味も自ずと理解できるようになってくる。
ゾンビとは、ゼウスを目指してあらゆる可能性を確かめるべきことを忘れたモノ。
《全知》ではない、ただの人間であることを忘れて、与えられた情報や、たまたま辿り着いたデッキに満足し、自ら「ゼウスのように完璧であろう」とする執念を持たない存在。
ゾンビになってしまえば、クソデッキを選択するのは不可避なのである。
浅原はだから、ゾンビになってはならないと警鐘を鳴らしていたのだ。
浅原の『芯意』を理解した今。
インタビューで聞いた浅原の言葉の1つ1つが、とても含蓄ある至言であるかのように思い出されてきた。
冒頭のやりとり。ゼウスについてこれまでの『あのクソ』に沿って具体的に語ってもらえないかという要望に対し、浅原はこう答えたのだった。
浅原 「確かに今までの『あのクソ』も、全部ゼウスを目指さなかったで説明がつくね。ゼウスから見ればらっしゅは蛇だったと思うし、ナベはヘラクレスだった。ヤソは……ゼウスに近いけど……多分、二周目の縛りプレイを楽しんでいるゼウスなのかもね。行弘は、まだわからないかな。ゾンビから脱したみたいだから今後に期待だね」
このセリフも。今なら意味がわかるような気がする。
4.信仰の足枷/Faith’s Fetters
浅原 「らっしゅは蛇だね」
旧約聖書において蛇とは、イブに知恵の実を食べるよう唆す存在である。
第1回で取り扱ったプロツアー・京都09において高橋純也は、青白GAPPOというクソデッキを作り上げた挙句、私と高桑にそれを伝播して神への感謝(3-9)という最悪の事態を引き起こした。
高橋自身が、自らが作ったデッキをゼウスが作ったかのように絶対のものと勘違いしてクソデッキに堕し、それだけに飽きたらず他人にもクソデッキという毒を注入した。
そのことを浅原は蛇に例えているのではないか。
浅原 「ナベはヘラクレスなんだ」
第2回で渡辺雄也は調整の本質的な不確実さを語った。
そもそも事後的にソリューションと呼ばれるようなデッキを毎回見出すことは難しく、時間の許す範囲で事前にできるベストを尽くすことがプロとしての在り方なのだと。
あくまでも現実を模索するその姿は、どんな困難な状況下においてもゼウスという無限の可能性を追い求める浅原とは対照的だ。
ゼウスたらんとするのではなく、人間としての限界を極めようとする渡辺の姿勢。
それをもってギリシャ神話の半神の英雄、ヘラクレスと評したのだろう。
浅原 「ヤソは多分、2周目の縛りプレイを楽しんでいるゼウスなのかもね」
第3回でわかったことは、八十岡翔太の調整方法は凡人には真似できないということだった。
八十岡自身がゼウスを目指さずともまるで既にゼウスであるかのようなスペックの高さを持っているが故に、カードが足りないからといって《タルモゴイフ》を3枚にしたとしても勝ってしまう。
本来ゾンビとしてクソデッキを作りがちであるはずなのに圧倒的に勝てるというその例外的な才能は、もはやこの世界の2周目としか考えられない。
そして2周目であるが故に、ヤソは1周目とは異なり「自分自身でデッキを作ることにこだわる」という縛りを己に課している。そう言いたいのかもしれない。
浅原 「行弘は、まだわからない。ゾンビから脱したみたいだから今後に期待だね」
第4回で行弘賢は、クソデッキを作ってしまった経験から自分なりの調整方法を見つけ出した。
それは基本的には渡辺同様に調整の時間的限界を前提としているという点でゼウスへの道のりではないかもしれないが、ただのゾンビだった行弘がクソデッキを乗り越えプロプレイヤーとして成長していくことで、ゼウスとは異なる新しい道が開けるかもしれない。
多分浅原は、そういうことを言いたいんだと思う。
5.未来の大魔術師/Magus of the Future
浅原の哲学。
あくまでもゼウスを目指さんとするその姿勢から、我々は多くのことを学んだ。
そう、我々は失敗をする。それは避けられないことだ。
だが、クソデッキすらもマジックの一部なのだ。クソデッキだけを排除して、マジックのすべてを理解することはできない。
だから、クソデッキを作ることを恐れずに。むしろクソデッキを作ることを愛することで、マジックをより深く理解することができるのだろう。
クソデッキを作り続ける。
それは結果として、クソデッキをプロツアーに持ち込まないことにつながるかもしれない。
しかしそれはきっと途方もない作業で、心が折れる作業だ。間違いなく途中で投げ出したくなるレベルの苦行で、そして投げ出した結果、大抵の人はクソデッキをプロツアーに持ち込んでしまう。
普通ならば、常人ならばできない領域のマジック。
浅原はゼウスを目指しているから、それができる。ゼウスを目指すという「選択と決断」をした自分に背を向けないために。
どこまでも謙虚に、どこまでも貪欲に、未知の可能性を追い求める。
だから浅原はデッキを作れるし、勝てるのだ。
自分にも、できるだろうか。
日々の間に零れ落ちてしまいそうなクソデッキの数々について、1つ1つその可能性を確かめながら歩んでいくことが。
いや、きっとできる。
浅原に教わったからだ。自分の想像力を過信してはいけないと。マジックにはまだまだ知らないことが溢れているんだと。
過去に通り過ぎていったクソデッキも、もしかしたら未来のソリューションになるかもしれないのだと。
今はわからないけど、それがわかる日をめざして。
だから。
あの日見たクソデッキの名前を僕達はまだ知らない。
そろそろsecret baseが流れる頃合いだ。
10年後の8月、なんてことになる前に別の記事でお目にかかれるとは思うが。
ともあれ全5回、お付き合いいただきありがとうございました。
6.悪人に休息なし/No Rest for the Wicked
~後日、都内某所にて~
やりましたよ浅原さん!ついに『あのクソ』第5回が、浅原さんのゼウスの回が書けたんですよ!
浅原 「なんすかゼウスって」
ほら、あれですよ!つまり人間には限界があるってことなんですよね?ようやくわかったんですよ浅原さんの『芯意』が!!
浅原 「そんなこと言いましたっけ。それより今はふなっしーすね。ふなっしー目指さない奴はゾンビ」
え?でも浅原さんが自分でおっしゃったんですけど……
浅原 「是非もなし」
いや意味わかんないですし……
浅原 「是非もなっしー」
あの、ちょっと
浅原 「是非汁ぷっしゃー!」
やっぱりもうやだこの人!
~完~