Translated by Nobukazu Kato
(掲載日 2018/09/14)
意図的にミスをしてみる
デッキを試し始めると、すべてが新しく、すべてのゲームが違ったものに感じられる。常に初めての状況に立たされ、直面したこともない問題を解決しなければならなくなる。ミスをたくさんするだろうが、それは問題ない。ミスに気づけたということは、何かを学び、成長したということだからだ。しかし、実際のゲームでは、ゲームが終わったあとでも、どちらが正しかったのかまったく分からない選択を迫られることがある。
例えば、「ドレッジ」を使っているとき、1ターン目に《信仰無き物あさり》と《傲慢な新生子》のどちらをプレイすべきだろうか?
別の例をあげるならば、《安堵の再会》で「発掘」能力持ちのカードを2枚捨てるべきか、あるいは「発掘」能力持ちのカード1枚と《秘蔵の縫合体》を捨てるべきだろうか?
どちらの例も多種多様な要因が絡むため難しい判断になるが、初めてそのデッキを使うのであれば、正しい答えにたどり着くことは不可能だ。多くのランダム性が絡むため、判断はさらに困難になる。
《秘蔵の縫合体》を捨てれば、より早く盤面を作れるというリターンがある。しかしその反面、”「発掘」が途切れて、通常のドローをし続けなければならなくなる”というリスクがある。 そうなってしまうと、自分のゲーム展開が止まり、盤面を作るためにより 多くのターンをかけてしまうことになるのだ。だが、リターンがリスクを上回るかどうかの判断はどうすればできるだろうか? どうすれば確率や潜在的な影響を数値化できるだろうか?
《安堵の再会》の例に関しては、2年以上プレイしてきた僕でさえも、まだ答えが出せないでいる。ただひとつ確かなのは、状況に依存するということだ。一方の選択肢を取ったほうが良いときもあるし、他方の選択肢を取ったほうが良いときもあるのだ。
ここが危険が潜んでいる第1のポイントだ。
あなたは見たこともない状況に立たされたとき、自分の内なるシャーロック・ホームズの力を使って、正しいプレイにたどり着こうとするだろう。そして何度も同じ状況に立たされるうちに、よく発生する状況なのだと気づく。あなたの脳は、以前に見たことのある状況と同じだと認識し、大抵の場合、前回と同じ選択を取ってしまう。そして最初に考えた理屈が正しいのかどうかをまったく疑問に思わず、同じような状況で何度も何度もその選択肢を取ってしまうのだ。こうして”習慣”が形成される。
これはどちらの選択肢を取っても勝ってしまうような状況で往々にして起きてしまうことである。しかし、一方の選択肢は75%の確率で勝ち、他方の選択肢は85%の確率で勝つという場合、どちらが良いのかを追究することには大きな意味がある。問題なのは、間違った選択をしても咎められることがあまりなく、間違った安心の感覚に陥り、自分の選択肢は正しいのだと思い込んでしまいがちであることだ。
そして仮に咎められたとしても、「あまり起きないことが起きたんだ。だから運が悪かっただけだ。他方の選択だって裏目はあったし、そっちのゲームプランを取ったとしても負けていたさ」と自分に言い聞かせてしまうのだ。
「自分は正しかった、自分のせいではない、自分ができることはすべてやった」と自分に思わせるために言い訳を並べることもできるだろう。
しかし実際にはできることはある。デッキを本当にマスターしたいのであれば、どちらの選択肢も試す必要があり、何度も何度もどちらの選択も試さなければならないのだ。短期的には、より勝ちそうだと自分が思う選択肢を取ったほうが絶対に良い。しかし長い目でみれば、「間違っている」、あるいは「次善的だ」と思うプレイを時折してみて、その結果がどうなるのかを見てみるほうが良いのだ。他方の選択肢は考えもしなかった隠されたメリットがあったり、全体としてより一貫していたり、リスクがあると思っていたものが実はなかったなどの気づきを得るかもしれない。表面上はわずかに劣っているように見えても、他方の選択肢の方が最初に選択していた選択肢よりもはるかに勝てると気づくかもしれない。
私の考えでは、仮に最初の選択肢が正しかったとわかったとしても、テストプレイの段階では他方の選択肢を試さないことはミスだ。
自分の潜在的な弱点を見つける最善の方法として、そのアーキタイプに長けたプレイヤーのプレイを見るというものがある。そのプレイヤーが自分とは異なる選択肢を取った場合、「あれ? もしかして自分もこのプレイ真似してみるべきなんじゃないか?」という考えを生んでくれるのだ。
彼らと意見を交換したり、どうして自分とは違う結論に至ったのかを聞いたりすることもできる。それぞれがパズルの一片しか持っていなくても、それを全員で集めればパズルを完成させることができるのだ。
まあもっとも、Twitchのチャットでミスをしたプレイヤーを罵ることもできる。どちらの選択を取るかはあなた次第だ。
もっとも難しいのは、一度そのデッキで経験豊富になってしまうと、他人の考えに見向きもせず、その考えの良いところを考えもしないようになりがちだということだ。
誤って考えを切り捨ててしまっていたと気づいたとき、そうなってしまった一見もっともらしい理由があることが多い。「そのプランは機能しない。だってこれはあれで、あれはこうだから云々……」と。しかし新しい考えを生むプレイヤーは、「だってこれはあれで、あれはこうだから云々……」の部分がどんなものであろうと、その解決方法を見つけ、私が連ねた最初の論理は筋違いなものにされてしまうんだ。
例をあげよう。
ラウリ・ピスパ/Lauri Pispaがグランプリ・プラハ 2018で《硬化した鱗》デッキを使うつもりだと聞いたとき、「悪いことは言わない。やめておけ。あのデッキは安定性が低くて脆いし、単体では役に立たない《演習用模型》のようなカードばかりだ」と思った。以前にそのデッキを試したことはあったから、全くもってよろしくないデッキだと知っていた。
しかしそのとき、私がテストプレイしたときからデッキリストが変わっていたことは露知らずだったのだ……。
最悪の攻め手であった《演習用模型》はデッキから外され、《活性機構》に取って代わられていた。《活性機構》は+1/+1カウンターが乗ったときに使うカードとしても、+1/+1カウンターを乗せるカードとしても使える、単純に強力なカードだ。この変更でデッキははるかに強力になり、リソースを削りあう長期戦により適合する形になったのだ。
もうひとつ変わっていたのが、土地だ。
《ファイレクシアの核》は《搭載歩行機械》に対する《流刑への道》のような追放除去を弱体化させ、《オラン=リーフの廃墟》は土地でありながら5枚目以降の《硬化した鱗》として限りなく近い役割を果たしている。
私がこのデッキが良くないと思った理由はまったく当てはまらなくなり、ラウリはグランプリを勝ち取ることで私が間違っていたことを証明してくれた。
だがまだ私が気に入らないカードが1枚だけある。《ゲスの玉座》だ。
もしこのデッキを愛用している人がこの枠により良いカードを見つければ、モダンでベストなデッキになるかもしれないと私は信じている。
練習をし過ぎてしまう
新しいデッキをプレイし続けるに連れて勝率は上がり続け、カードのうまい使い方も理解し始める。たとえば、戦闘中に《一瞬》を自分のプレインズウォーカーをバウンスするために使ったり、《燻蒸》を使う前に《封じ込め》を手札に戻したり、墓地の《秘蔵の縫合体》を《精霊龍、ウギン》の能力から守れるように相手のターンにフェッチランドを使って《恐血鬼》を戻すようにしたりする。
また、特定のマッチアップでのより有効な戦術も見つけられるようになる。たとえば、コントロールミラーでは相手が先にライブラリーアウトするようにゲームの序盤からデッキの枚数を数えたりする。時間が経つにつれて、より多くのプレイにどんどん慣れ始めて、ひらめきの瞬間は減っていきがちになる。
慣れることには明確にメリットがある。例えば、《墨蛾の生息地》に9個の+1/+1カウンターを何度も乗せていく経験をすると、《電結の荒廃者》で生け贄に捧げられるアーティファクトが毒殺し切る量だけあるかを数える習慣が身につく。どのゲームプランを取るべきか、どの弱点に付け込めばよいのかがわかってくる。
最初のうちは、多すぎるぐらいの選択肢を考慮に入れるはずだ。間違った選択肢だと決めつけることも少なく、既定の選択肢が即座に浮かんでくるということも少ないのだ。だからこそ、慣れ親しんだデッキを使うときよりも、新しいデッキを使うときにはプレイがはるかに遅くなってしまう。そして時が経つにつれ、逆の問題を抱えるようになる。他の選択肢を十分に検討しなくなるのだ。必要以上に多くの選択肢を間違ったものとして無視してしまう。
一般的な習慣の特徴は、簡単で頻繁にあるタスクを自動処理し、新しく困難なタスクのために脳の力を節約することにある。問題なのは、この自動処理を過度にしてしまうときだ。つまり、どんなときでも、もっとも一般的な弱点を突いてしまい、一般的ではないが特定のその状況ではより効果的な狙いどころが突けないかを確認し忘れるようになったときだ。別の言葉で言うなら、オートパイロットでプレイし始めたときだ。
それぐらいになるまでデッキに慣れた場合、自分が選択しているプレイは本当にベストなものなのか、あるいはもっともありがちなプレイをしているだけなのかを自分に問う必要が出てくる。この状況は、もっともありがちな状況と画する要因はないだろうか? このルールはすべてのマッチアップで通用するものだろうか? 先手でも後手でも通用するルールだろうか? この相手のプレイパターンにだけ当てはまるものだけなのではないだろうか? と。
もうひとつ陥りやすい考え方は、自分のデッキは特定の立ち位置にしか立たないと考えてしまうというものだ。そのアーキタイプを本当にマスターしたいなら、常識にとらわれないゲームプランも見つけておく必要がある。
そのいい例として、グランプリ・バーミンガム2017の決勝がある。
MagicのGrand Prix Birmingham 2017 Finalsをwww.twitch.tvから視聴するロイク・ル・ブリアン/Loic Le Briandは「バーン」を使っていて、「バーン」はどのフォーマットでももっとも簡単で、もっともわかりやすいデッキのひとつとして考えられることが多い。「バーン」にスキルが関与するかについての多数意見は、Twitchのチャットに投稿されるSMOrcの絵文字から理解できる(注:SMOrcとはTwtichのゲーム放送で使われる感情表現の一種。もともとはハースストーンで「深く考えずに本体を狙え」という意味で使われた)。
ロイク・ル・ブリアンの対戦相手はスティーブ・ハット/Steve Hattoで、彼のデッキは《不屈の追跡者》や《最後の望み、リリアナ》、《永遠の証人》などの ロングゲームに強いカードを有する黒緑のデッキだった。
典型的な流れは明白だった。ル・ブリアンは攻め一辺倒なデッキでいち早くゲームに決着をつけようとし、ハットは自分のサイズの大きいクリーチャーたちが仕事を成すまで生き続けようとするだろう、と。
1ゲーム目は筋書きどおりに進んだものの、2ゲーム目を見てもらえばわかると思うが、ル・ブリアンはその筋書きを手に取り、ゴミ箱に投げ捨て、私たちに新たな筋書きを示してくれた。彼は黒緑デッキを消耗戦で制したのだ。バーンデッキでだ! 彼はハットの《永遠の証人》や《漁る軟泥》を《大祖始の遺産》で妨害し、《流刑への道》で《タルモゴイフ》を追放し、《稲妻のらせん》で《不屈の追跡者》を除去し、なんと相手の除去を《ボロスの魔除け》でカウンターさえしたのだ。
もし他のプレイヤーだったら、よりアグレッシブな姿勢に固執して、サイドボード後によりゆったりとしたアプローチをとろうと考えもしなかったことと思う。ル・ブリアンはそうならず、なんとゲームが始まる前からゆったりとしたアプローチを狙っていて、バーン呪文を数枚サイドアウトして《大祖始の遺産》や《流刑への道》を入れたのだ。
この例でお分かりいただけたと思うが、自分のデッキが「勝つには絶対にこれをしないといけない」、「安定させるために絶対にこれが要る」、「絶対にこの立ち位置でないといけない」という考えに固執してはいけない。そうではなく、柔軟でいようと心がけ、自分が考えている前提が本当に通用するままなのかどうかを時折チェックする必要がある。経験則は確かに大事だが、それは破られるということでもある。繰り返しになるが、これを実践に移す最善の方法として、他のプレイヤーが同じデッキをプレイしているところを観戦することが有効だ。
時代遅れのやり方のままでいる
もうひとつミスのタイプとして、かつては正しかったことを今もなおし続けてしまう、というものがある。時代が変われば、自分のプレイパターンや、使用するカード、デッキ選択、マッチ相性に対する考えも同様に変えなければならない。時代遅れな情報を使い続けてしまうことが、勝利を遠ざけてしまうもっともありがちな要因のひとつなのだ。
例として、《傲慢な新生子》はかつて「発掘」の必須パーツであった。《ゴルガリの墓トロール》が禁止でなかったときは、私もそれが正しかったと思う。当時は《叫び角笛》を使っているプレイヤーもいたが、私はそれは違うだろうと思っていた。しかし最近になってまた《叫び角笛》が使われ始め、《傲慢な新生子》は消えたも同然になってしまった。
《ゴルガリの墓トロール》が使えないのであれば、《傲慢な新生子》が一貫して《叫び角笛》より良いといえるほど枚数を多く掘れる「発掘」能力を持ったカードがないのだ。即座に6枚掘れるのは、3回に分けて2枚ずつ落とすより明らかに優れている。だが、3回に分けて2枚ずつ落とすのは、「発掘」3よりはるかに優れている。だからこそ最近は《叫び角笛》を選択されることが多いようだ。
「ドレッジ」を使用するプレイヤーが《叫び角笛》の可能性を再び見出すのに随分と長い間かかったな、と私は驚いている。これはまさに習慣の力や、一度弾いた選択肢を再度考慮することがいかに困難かを示している。
私が今後起きるであろうと予測しているもうひとつの変化が、「呪禁オーラ」がメインから《神聖の力線》を外すだろう、ということだ。「呪禁オーラ」というデッキや、メインから《神聖の力線》を入れるという選択が非常に流行っていたときは、「ジャンド」がそこら中にいた。
ドミトリー・ブタコフはMOCS2017で環境に少しいた「グリクシスコントロール」や、数多の「ジャンド」を次から次へと倒した。メインに《神聖の力線》を4枚入れていたことが、彼の成功の大きな要因だった。ダン・ワード/Dan Wardが勝ったグランプリ・トロント2018について詳しくは知らないが、あのグランプリでも《神聖の力線》は非常に良かったと思う。
しかし、MOCS2017とは異なり、もう「ジャンド」はメタの半分もいない。もはやマイナーであり、目の敵にされていない。現在のモダンのメタゲームを見てみると、もっとも人気のデッキは「人間」、「青白コントロール」、「トロン」、そして「ホロウワン」だ。少なくとも私にとっては、《神聖の力線》はこのどのマッチアップでもかなり弱いように思える。たしかに、《帆凧の掠め盗り》の能力を止められるし、「ホロウワン」に《稲妻》で火力負けすることもなくなる。だが、「ホロウワン」には《信仰無き物あさり》や《ゴブリンの知識》、《燃え立つ調査》があるため、《稲妻》を手札に抱えたまま、ということにはならないだろう。腐ったカードを手札入れ替えに使ってしまうからだ。《神聖の力線》を1枚、あるいは2枚も通常のドローで引いてしまった場合については言うまでもないだろう。
確かに《神聖の力線》が有効な「バーン」などのデッキもいるだろう。だが、「バーン」相手ですら《夜明けの宝冠》を既に4枚も入れているのに、そこにさらに補強する必要があるとは思えない。
その他の人気のデッキのほとんどが、《神聖の力線》をまったく気にしない。「《クラーク族の鉄工所》デッキ」はコンボをスタートさせるターンに《仕組まれた爆薬》をX=4で起動すれば良いし、「スピリット」はそもそも対戦相手を対象に取るものを使っていないし、「ブリッジヴァイン」で理論上唯一対戦相手を対象に取りうるのが《歩行バリスタ》だが、普通に0マナでキャストされてしまう。
では《神聖の力線》に何を期待しているんだろう?
スタンダードではモダンよりもアップデートしたり可能性を再度探ったりする必要がはるかにある。ある週のグランプリで勝ったデッキは、次のグランプリではひどい選択肢になっているかもしれないのだ。ブラッド・ネルソン/Brad Nelsonのデッキ選択を見てみれば、スタンダードのグランプリで毎回のように違うデッキを使っていると気づくはずだ。
公平のために言っておくと、 仕事を持つ大半の人にとっては、毎週デッキを切り替え、デッキを自分のものにするほどテストする余裕はない。そういう人たちは、毎週次に来るベストデッキを見つけてメタのトップに立つためのただならぬ労力をかける時間(やスキル)などないのだ。だが、時代遅れのやり方に凝り固まらないようにし、新しい考えを評価に値しないと切り捨てるのではなく、寛容な心で新しい考えを評価する努力をすることはできるだろう。
まとめ
話をまとめるため、ウィンストン・チャーチルの言葉を”間違った形で引用”してみたい。
成長するには変化することが必要である。
したがって完璧とは変化を繰り返していくことだ。
もともとは「完璧とは変化を繰り返してきた結果である」だが、間違った引用として書いたものの方がしっくりくると私は思う。自分自身や自分のデッキの完璧な状態とは、登り詰めた山頂でもなければ、そこに居座り続けるようなものでもなく、成長していくために新しい道を見つけようとする飽くなき欲求を持った、常に進化する動的な状態を指すのだ。
マッティ